(以下、今回の公演パンフ寄稿文っす。あんまコメントいただけなかったのですが、分かりづらいすかね。。意味不明? ちょっと端折りすぎたか。。あまり小返しをしない等の花山演出が、もともと時空間・現実と虚構が渾然一体である芝居を、まるのまんま立ち上げる試みだとして、ベルクソンの「純粋持続」を引いたつもりなのですが。。このコメント自体、わけわかめか。。うーむ。)
花山節考 Ⅱ
いま、早いもので本番をほぼ半月後に控え、開始からひと月以上が経って、稽古はようやくラストシーンに差しかかりました。遅すぎるようですが、花山氏はあまり、抜きや小返し(場面を抜き出しての繰り返し稽古)をしません。しばらくは「じゃあドアタマから!」のかけ声が稽古開始の合図です。
以前どこかで、氏の芝居は「<お芸術>でない前衛のまれな例」みたく書きましたっけ。40CARATに身をおいて7〜8年、僕もずいぶん氏の前衛語録を聞いてきた気がします。いわく、「ここ面白くなくなるから稽古やらない!」等々 ^^;
氏の目論む舞台は、ガクに入った完成品の再現ではなくて、あくまで公演本番当日、お客さまの眼前にて、何かを初めて発火させることにあるようです。
芝居って、架空の物語ですけど、同時に現実でもありますよね? 劇場という、うす暗い場所に集いくださったみなさまの前で、いくぶん貧乏そうな(?)者たちが、何やら動いたり叫んだりするという現実。
前衛花山演出とは、そんな虚構と現実がない交ぜの、芝居という不思議な時空間のかたまりを、より強く発火させんとする企てなのかもしれません。
アキレスと亀のパラドックスは、そもそも分割できない時間を分けようとしたことによる錯覚、と看破した哲人がいましたっけ。たとえば人の心を震わすメロディのつながりから、一音だけを取り出しても意味をなさないように。
花山氏の演出に触れながら、僕はそんなことを思ったりしています。
今昼そして今宵、みなさまの中にゆたかな発火が起こりますように。さて☆
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